*注意:この文は2005年度執筆です。時間とともに事実関係は変化しています
私のニュージーランドとの出会いと移住までの日々
〜ニュージーランドにたどり着くまでの体験記〜
ニュージーランドに来る前は私はこんな人間だった
〜精神的幼年期を過ごす〜
最後に、少しでも参考になるならとの思いで、私自身がニュージーランドにたどり着くまでの体験記を手短にまとめてみたいと思う。
私は2005年現在、四十五歳である。私はどんな世代に育ったのだろう。1960年、昭和三十五年生まれということは、二十歳のときに1980年だったわけだ。当たり前である。なにが言いたいかというと、単にどんな世代のどんな人間がこの本を書いて、実際にニュージーランドにいるかを知っていただければ移住した人間の実像が見えてくるかと思うだけのことだ。そんなことは知る必要もない場合は、お許しいただきたい。話を戻すと、学生時代は今のような情報化社会とは甚だしくかけ離れていた。大学時代の文化的出来事をあげると世相も見えるかとは思うが、フランシス・コッポラが地獄の黙示録を作って映画界に革命をもたらし、ジャズは軽い方向へ向かいフュージョンに進化し、ロックとい� ��枠を超えて精神的支柱であったジョン・レノンは熱狂的なファンによって射殺され、若者文化は確実にひとつの時代の終わりを告げた。すべてが劇的に変わった。その精神的な変化のスピードは今の時代からは想像もできないほどだ。それは逆に言えば、情報がなかったのである。今のように好き勝手にインターネットで入手できる情報もなければ、雑誌や新聞でも思うように情報は手に入らなかった。だからこそ、ひとつの情報が意味を持って時代を変えていった。
そんな時代に生きた私はまだ見ぬ若者文化の先端を行くアメリカに憧れを持った。そして、大学3年の時の夏休み、それまで1年以上もかけて貯めに貯めた貯金を持ってひとりアメリカに向かった。羽田を発つチャイナ・エアラインは今のように日本人でいっぱいではなく、外国人の旅行者がほとんどだった。目的地はサンフランシスコから旅してはるかニューヨークまでたどり着くこと。今でも思い出すのは、最終目的地のニューヨークへと向かうバスの中で目に写った夢の大都会の光景。今思えば何気ない街の風景なのだろうけれど、それをはじめて目にしたとき熱い涙がこみ上げてきたことは今でも鮮明に思い出す。1981年のことだ。前の年に師と仰ぐジョン・レノンが撃たれて他界しているためか、「こ� ��で死ぬなら本望だ」などと勝手に思い込んでは、バスの車窓を彩る風景を見つめ、夢かなった旅を忘れまいと一瞬一瞬を目に焼き付けた。何もかもに対して恐ろしく真剣だった。
そして、その旅を終えて帰国するときに思ったことは、「もう海外旅行はこれで終わりなのかもしれない」と、そんなことだった。なぜなら、とてももう時間的にも金銭的にも将来は不可能なように思ったからだ。大学を出て会社にでも入ろうものなら、時間もないし休暇もない、そんな人生が一生続くのだろうことを当然として考えていた。でもそれが標準の思考回路であった時代だ。生涯ひとつの会社で終身雇用、会社のために働き、日本の中で一生を過ごす。それが冗談じゃなく理想的な社会人の姿だった時代だ。現在学生の読者の方には想像できないかもしれないが、それが現実だった。
大学4年。会社の就職説明会で、忘れもしないことがある。ある会社が学生を勧誘する言葉が「当社は昨年海外出張した人間がいる」というせりふだった。今となっては、そんなことは当たり前で、だからなんなのと言われてしまいそうだけれど当時は海外に仕事で行くのはせいぜい商社か旅行関連程度というのが精一杯だった。海外に行って仕事をしたり、海外に行って生活することは楽しそうだけれど、どうせできないと思っていた。そんな扉も開いていないような時代でしかなかった。
夢の海外移住が実現するプロセス・その1
〜小さな努力の積み重ね〜
それがどうしたことか、今はニュージーランドに住み込んで生活している。では、それほどまでに遠い海外がなぜ今可能になったのだろうか。一言で言えば、「継続は力なり」かもしれない。今思えば、私の人生は憧れの追求そのものだった。一大エンターテイメントの国、アメリカにあこがれてニューヨークに行く決心をして旅立ち、その感激から抜け出せずに次なる新大陸をいつも心の中で求めていた。そのためには遠回りするような無駄な時間も使いたくなかった。だから結果勤めていた広告会社も退社。さすがに結婚して2年目のことだったので、妻には心底心配をかけたとは思って反省しているが、今となってはそれも昔。笑って許してもらうしかない。そして、次に自分の会社をやっとのことで設立して� ��いわゆる「好きなことをする」人生を選択。しかし、中身はそんなカッコいいはずはなく、毎月の家計をなんとかやりくりする程度の売り上げもないこともしばしば。しかし、目標に向かっていると思うと、懐は寒くとも、心は熱く体も止まることなく動くから不思議だ。会社に勤めていたときにこれができればどんなに評価されたことだろうか…。
そんなぎりぎりの毎日でも不思議と後悔もなく前に進んでいった。そのころは、将来海外で生活している自分はまったく想像すらしていない。あったのは、いつか世界で仕事をしてみたいという、例によって自分勝手な憧れだけだ。だから、自分が少しでもその世界に近づけるよう努力して営業活動に励んだ。その後、しばらくして次第に仕事が入り始めると、ハワイやアメリカでの仕事が次第に定着してもらえるようになった。正直なところ、それでも家計は会社にいたほうが安定しただろうけれど、自分の夢に近づくことのほうが他に勝った。
こんなことの連続だった。月日はあっという間に過ぎ去り、気がつくと会社を作ってはや十年になろうとしていた。まだまだ満足できるほどではなかったが、それでも次第にまとまった仕事はもらえるようになってきていた。
しかしながら、毎日、毎年を乗り切るための仕事はいくら好きなことでも心身ともに疲れ果てることも実際に多かった。もちろん、それは好きだから乗り切れたのだけれど、実際は過激な仕事と苦手な相手もやむなしの人間関係やら、大きな仕事があれば絶対に投げ出せない責任やらでストレスもそれなりに積もった。不眠症にもなったし、胃カメラも飲んだ。
そのころだろうか、次なる自分のステップを考え始めたのは。仕事は何とか前向きになったし、目標としていた世界舞台でもそれなりに仕事はできていた。しかし、何かが足りなかった。時間が足りないほど駆けずり回り、忙しさの中でもまとまった仕事ももらえるようにもなってはいても、なにか心の中に隙間のようなものがあった。
ニカラグアで引退する場所
そして自分の会社設立から十年後、ここまで続けた仕事、夢追い作業が思いもよらない方向に実を結ぶようになっていくのだが、それは今思えばやはり「継続の力」だろう。結果論かもしれないけれどやはり本当に続ければいいこともあるのかもしれない。
夢の海外移住が実現するプロセス・その2
〜積み重ねたものが利用できる〜
何かが足りない、いや何とかしないとならないことはわかっていた。何とかするべきことは、心の安息がまったくない状態から、少しでもマイペースを取り戻すことだった。仕事に埋没して生きていくことは覚悟していた。だけれども、健康を害したり好きな音楽を聴いても落ち着かないような毎日はできるなら早く抜け出したかった。
そんなときウェブサイトで見つけたのがゆとり大国のニュージーランドという国の情報だった。美しい自然と平和、親切な人たちと行き届いた社会福祉。そんないい情報はウェブサイトや雑誌では見るけれど、最初は半信半疑だった。いや、正直なところそれまで好きになって何度も足を運んでいたハワイと比べると、癒しだの安らぎなどといった場所としては、他に勝る場所もあるわけないだろうというのが本心だった。しかし、その後情報を集めるにつれ、さらに興味がわいてきた。まんざらいい国というのも嘘ではなさそうで、そのうえもしかすると自分が移住できる可能性があるかもしれないこともビザを調べるほどにわかってきたからだ。これも正直な話だが、ハワイ、つまりアメリカにいずれは移住しよ� ��と考えていたから、それまで散々ハワイに住むためにアメリカの移民制度やビザの取り方は調べまくっていた。しかし、困ったことにアメリカは本当になかなかビザを出してくれない国だった。まして、例のニューヨークでのテロがあってからというもの、永住権どころかビジネスビザもそう簡単に取れない状況になってしまっていた。そこに出現したのが、ニュージーランドだったのだ。
とにかく調べてみると自分にもわずかな望みがあることがわかった。ビジネスでの移住だった。それまで十年間自分の会社を設立してから駆けずり回った経験が、自営業者あるいは起業家としニュージーランドで評価してもらえることがわかった。そして、その同じ仕事を続けていくならニュージーランドでワークビザを取得して自分の会社を起業して生活していくこともできるらしかった。
ハードルとなるのは、その経験とこれからのニュージーランドでの仕事がはたしてニュージーランド社会に貢献すると評価されるかどうか、もうひとつは、英語の試験だった。その両方をクリアしないと、いくら仕事の能力や資金力があっても結果ビザは出してもらえない。しかし、これも継続は力だろうか。続けてきた仕事は十年という歳月で相当の分量ともなり、またその範囲も相当の幅広さともなっていた。その中から、ニュージーランドでも仕事ができそうで、なおそれが地元の経済や社会に貢献できそうな仕事を続けていけばこれまでの経験と将来性を実証したうえで、貢献見込みも示すことができた。運がいいことに、私はそれまで海外で取材活動も行ったりで、さまざまな形態の旅行や留学そのものを� ��画することも仕事のひとつだった。なのでそれを続けていくことは可能だった。これならニュージーランドに行って会社を起こして仕事をすれば外貨を獲得することに貢献できるわけだ。そして、もうひとつのハードルの英語も子供のころから外来ものの音楽や映画に染まっていたためアレルギーなく身についていた。そして、私も妻も仕事で海外に行くことも多く英語は業務に必須状態だったため、なんとか枯れずに持ちこたえていた。
なんと、それまでの仕事や生活は、そのまま移住計画に役立つこととなったわけである。
夢の海外移住が実現するプロセス・その3
〜思い立ったらすぐ実行〜
さて、もしかするとビザを取って仕事ができるかもしれないことがわかった。世界で仕事をする夢は子供のころから強かった。そして、今回はそれに安らかな生活を付け加えたいという欲も手伝っているので、その分またもやハードルが高い。単にハワイに行ったり、もちろんニュージーランドに遊びに行って発散するのは日本での仕事をがんばれば時々はできる。でも、移住しての可能性があるなら日本で慢性的に脱出できない疲労感とストレスが抜けない生活から開放されるかもしれない。となると、もう待っていられない。早速、一路ニュージーランドへと旅に出ることにした。
旅に出た。思えばニュージーランドについての情報を得てからわずか1ヵ月後のことだった。そして、クライストチャーチに降り立って南島をドライブして回り、車で北島のオークランドまで向かう計画の基、いまだハワイが好きでロックに影響されて世界のヒノキ舞台にあこがれて育った一人の中年は、まだ見ぬ心のリゾートを目指したのだった。
そして、クライストチャーチに降り立つところから始まった旅で、私は驚きと感動の嵐の連続に陥るのだった。思い出しても、すさまじい旅だった。羊と緑の美しい丘、そして田舎の景色を想像して出かけた私は、それまで持っていたニュージーランドに対するイメージを、旅するに連れどんどん修正する必要に迫られた。もちろん、かわいらしい羊たちと大きな丘はどこに行っても見ることはできた。しかし、それ以上にそれぞれの街が持つ個性や大自然の絶景に心打たれた。参った。
本当に予期せぬ喜びと驚きに包まれ続けた。カナダを思わせるような南島の絶景の中のドライブ。こんなところにすばらしき大自然があるとは…。緑に包まれた街と木漏れ日あふれる歩道、そこを歩いていく人たち。こんな緑あふれる街に遭遇するとは…。日本より少し小さいくらいの面積なのに、たった四百万人の人口しかいない国。これほど贅沢に空間を楽しめる住環境があるとは…。年間の平均所得は日本人の平均世帯の半分かそれ以下なのに、ゆとりある人たちの笑顔と質の高い生活。いったい日本とニュージーランドのどっちが金持ちの国なのか…。わずか十日程度の旅ではあったけれど、旅の間中私は自問した。なぜ生活する国しだいでこんなにもアベレージの生活様式が変わるのか、と。
日本人として私は高度に発達した経済やテクノロジーに誇りを持っている。その中で競合することで、世界の中でも高度なレベルで仕事をしているはずだという自負もあったのだろう。そのことに自分では十分満足していたし、それまで仕事で海外に出かけても日本という高度な環境から出て行くことで、ある種他の国よりも先進国であることの誇りや優越感までを持ち込んで(もちろん声や態度に出すことはないけれど)仕事をしていたように思う。それは一大リゾートのハワイに行っても、日本をしのぐ大国アメリカの本土に行っても同じだった。しかし、ニュージーランドに遭遇して、その考え方はまったく意味がなくなってしまった。今までの自分の中にあった価値観とは根底から異なる価値観に出会ってし� ��ったのだ。
どこに何がベトナム戦争の対立
競合しなくていい、自然の中で生きていける、笑顔は作るものではなく自然に出るもの、お金を稼ぐことが目的ではない、生活の質を決めるのは財産ではなく心のゆとりであること…。そんな、わかってはいるはずのことを、世界どころか日本でもあまり注目を集めることのない南半球にある国で、完全に見せ付けられてしまった。
それまで日本で追いかけてきた自分の心のステータスや満足感はどこかしら世間の中での自分という相対的な評価をもっていた部分がある。それは否定できない。しかし、その旅で私が体験したことはそうではない。相対的な評価はいらない。比べるべき人もいないし、競合するほど過激な業界もない。そして、そこには自分に不足していた安らぎが充満していた!犬と散歩する人々、ヨットを持ち出して海に向かうファミリー、バーベキューを毎日のように自宅の庭先で楽しむ食事、ツーリングに出かけて釣りをして一日を過ごすアウトドアライフ、これらが高給取りの姿ではなく、あくまで平均的な人々の姿だった。
私の初めてのニュージーランド旅行は、必然的に「自分の人生」をいやというほど考えさせられてしまった。それまでの盲目的な前のめりの突っ走り方が、少し終わりに近づきつつあるのかと思った。なぜなら、そうじゃない社会を見たからだ。ハワイでもその生活は垣間見ていたはずだった。しかし、ハワイのそれとも違う。ハワイの社会には、少なくとも階級意識は歴然と存在していたし、なにより富豪や成金が好んで行く場所もハワイだった。しかし、ニュージーランドにはそんな風景は似合わないように思った。見栄が必要ない、というかそんなことを本気でやって派手に着飾ったり振舞ったりすると、逆に浮いてしまいそうなのだ。
日本だったら社会の誰もがうらやむ対象はたくさん存在する。それがあるから少しでも努力して上を目指すことになるのが競争社会の原理でもある。しかし、逆に考えると、日本には人がうらやむ対象が異常に多いということだ。例を挙げれば、大きな家に住んで、ヨットを所有して、キャンピングカーで休日は出かけて、別荘まであって、毎日5時にはちゃんと仕事が終わって…。そんなことを自然にやっている人がいれば、おそらく日本人ならやはり多かれ少なかれ、その人の生活のうちのどれか、または多くがうらやましく思う対象であって、その人を羨望の眼差しで見るのではないだろうか。しかし、これらをニュージーランドで思いっきり実現してもあまり羨望の眼差しでは見てくれない。なぜなら、それ� ��平均的なニュージーランド人でもできてしまうからだ。平均的ということは、前に書いたとおり、日本の世帯の半分またはそれ以下の年収の人たちがである。
こんなことを次々と目撃してしまった私は、旅が終わるころには完全に自分の価値観の何かが変わっていた。ニュージーランドにいる間、大きな家に住むことや、ヨットを持つ人たちをうらやみはしなかった。なぜなら、それが普通であることに気づいたからだ。それ以上に、本当にうらやましく思ったのは、ニュージーランド人のおおらかさだった。心豊かに、安らぎある人生を送っているように見える彼らの姿が本当にうらやましいと思った。
かつて、私は東京、ニューヨーク、それにロサンゼルスのように毎日を駆け足で生きていくような環境が好きだったし憧れていた。競争社会で生きる術を学ぶためにもそれがベストな場所であると思っていた。そのころ、安らぎはまったく必要としていなかった。振り返れば自分も変化してきたわけだ。そう思うと、ニュージーランドとは出会うべくして、そのときのめぐり合いで、出会ったのだろうと思うようになった。あまりにタイミングが良すぎたからだ。
旅は終わった。そして、次の目標ができた。今度はニュージーランドにできるだけ長い間生活してみたいと思った。そのために、次の日からまた動き始めた。思い立ったらすぐ実行。今でも、これでいいのだと思っている。
夢の海外移住が実現するプロセス・その4
〜ビザを取ろう!〜
盛り上がってしまったからにはもう後戻りはできない。だめで元々の精神でビザに挑戦することに決めた。もちろん、ニュージーランドにできるだけ長く滞在して生活していくためだが、よく考えてみた結果ニュージーランドには自分のできそうな仕事もあることに気がついたからだ。いざ会社を作って生活を始めても仕事もなければ、すぐに撤退も目に見えている。それも困ってしまう。行動するのは早いほうがいいが、行動しながら同時に考えておくことも数多かった。仕事、資金計画、日本に残す親と家族、それに笑い話のように聞こえるかもしれないが老後までしっかり考えた。仕事はいつかできなくなる日が来る。その時まで考えておかないと不安は解消されないし、結果あとでまたストレスだらけの人生� ��背負い込むことになるからだ。しかし、それでも前進あるのみの結論となった。最初から答えは見えていたような気もするが、ちゃんと全項目検証してからの決断だ。それで吹っ切れて発進となった。
ビザは目的とする滞在内容や人の経歴によってとれるものが当然限られる。しかし、共通するビザ取得の注意点というと、次のようになるだろう。
■ 英語力の証明
■ 自分の経歴の紹介と資質の証明
■ ニュージーランドでの自分の将来像と将来性の証明
一般技能と呼ばれる永住権申請やいくつか種類のあるワークビザ、さらには、百万ドル以上の資金を投資して得る投資家ビザなどが申請する人が多いビザだろうけれど(詳しいビザの内容については移民局のウェブサイトを参照のこと)、そのどれにトライするにしてもこれらの項目をしっかり相手に証明していくことが必要となる。私の場合は、長期ビジネスビザというカテゴリーで申請したが、当然自分の経歴と実績の証明、将来のビジネスプランと確実性の証明、それに基礎的な英語力の証明、それに加えて健康と人格の証明が必要となった。健康の証明とは単に健康診断をして提出するが、人格証明は警察署から犯罪経歴証明書(無犯罪証明書)というものを取り寄せて提出した。
また、これらは自分で書類を作成して提出してもかまわないので、できる自信があればそれがもっとも安上がりだ。しかし、この書類作成と取り揃えの作業を逐一自分でする手間は相当なもので、それまでメディアの編集作業も仕事にしていた私自身、簡単にできそうに思っていたが、かなり面倒なため、慣れている移民書類作成のプロに依頼することにした。なにが面倒かということは書き出すと本当にきりがないくらい面倒なので、主な注意点だけを要約して置きたい。
英語力の証明
どのようなカナダの州は、ほとんどの人々を持っている
これは当然試験を受けることになる。ニュージーランドの場合IELTS(アイエルツと発音する)という試験で力を図られるが、これが案外難しい。TOEICやTOEFLは、読解とリスニングで点数がでるが、IELTSではそれに英作文とスピーキングが加わる。そのどの分野でもそつなく点数をとらないとならない。仮に読解、作文、リスニングは最高点でも、残るひとつの分野(この場合、スピーキング)が基準の点数に達しないとパスしない。目指すビザによってこの最低点数は異なるのでよく確認して目標を立てる必要がある。英語を母国語としない日本人の場合、多くの志願者はここで落とされてしまう。イギリスなどは当然として、インドやシンガポール、フィリピン、香港などがニュージーランドに限らず、移民を受け入れる国に対して、移民を多く排出するのは英語をクリアーできる背景が実は大きい。IELTSは試験を受けてからその結果は2年間有効なので、早めに受験しておくほうがいい。
経歴の紹介と資質の証明
これは学歴や職歴を提出する。ただ日本では問題ではないことがニュージーランドでは問題になるのが、学校で学んだことを職業でも選択しているかどうか。たとえば、経済を勉強した人が法律家になるわけはない。極端な話だけれど、弁護士になるには法学部のように、学歴と職歴の内容が一致していないと一貫性がないとして落とされてしまうことがある。
ニュージーランドでの自分の将来像と将来性の証明
これはこれから自分がニュージーランドにどのように貢献するかを証明しないとならない。たとえば、現地で就職が決まっていてある仕事をすでに期待されている、起業して新たな技術をニュージーランドに導入する計画書、ニュージーランドに投資して経済に貢献する計画書、などであるが、それらは目的とするビザによりかなり異なってくる。
これらをどこから審査官が見ても理解できるように整然と整えて提出しないとならない。私の場合ワークビザだったために、これらの書類に加えて過去の作品集をつけて実績を証明する資料とした。また、将来のプランのため仕事をする予定の人から推薦のレターなども書いてもらい、添付して提出したりした。それが効果的かどうかはわからないが、とにかく自分の潜在的な力や将来的な可能性をできるだけ伝えたかったのが理由だ。それに加えて健康診断と無犯罪証明書を取得しておくなどだが、これらの書類をそろえていくのが結構大変だった。
その上、最後にもうひとつ問題があった。考えてみると私の場合、たった一度しかニュージーランドに行っていない。ワークビザ申請にしては市場調査が少ないと考えたのだ。それで、急遽もう一度ニュージーランドに行ってマーケティングと会社設立の方法などを調べに撮りかかった。もうこのころになると旅の感動や夢を語っている暇もなく、書類作成のための作業でかなり忙しい毎日に逆戻りしていた。それでも、なんとかもう一度ニュージーランドを縦断してエリアマーケティングも行いビザ申請の計画書にも何とか反映することができた。
これで、終了。あとは提出して結果を待つのみだった。もちろん申請が受理されたため、今ニュージーランドにいるのだが、今思うと最も運がよかったのは的確に移民書類を作成してくれるすばらしいビジネスコンサルタントの方に巡り合えたことだ。とても親切なアドバイスをいただけたので、途中、仮にこれで申請が通らなくともしかたがないと自分なりに納得して作業に望むことができた。もちろんそれなりの料金はかかったが、仕事がすばらしかったため必要経費だと割り切ることができた。単なる巡り合いだが、幸運が手伝ってくれた。
夢の海外移住が実現するプロセス・その5
〜ビザをとったらまたまた超多忙〜
ビザ申請が終わってあとは待つのみ。ビザ取得の朗報をもらったのはそれから約1ヵ月後のことだった。おそらく3ヶ月程度はかかるだろうといわれていたので、早い結論にかなり驚いた。今でも覚えているけれど、カナダのロッキー山脈の取材で訪れていたジャスパーの街、宿泊中にホテルで開いたパソコンにメールが入っていた。決定的な瞬間とは本当にいつまでも鮮明に覚えているものだ。そのまま、ホテルから妻に電話をして喜んだこともいまだに忘れられない。なにか大きな扉を開いたような気持ちだった。それまで走り続けてきた毎日が自然に次々思い出となって脳裏によみがえった。違う新たな人生が始まった瞬間だったが、これから始まることに不安はなかった。淡い期待と夢はあったが、ニュージ� ��ランドという国に対して不安を感じる理由はすでにもうなくなっていた。
海外へ引越し1
〜現地での物件探し〜
ビザが出たということは、今度は引越しをしなければならないわけだ。何とか成るだろうと思っていたけれど、これがまた熾烈を極める忙しさとなった。これも書ききれないので、特に面倒だったことだけをご紹介すると、まずは通常の引越しと違って先にニュージーランドの住宅を決めなければならないことだ。そうしないと、日本の事務所や家の荷物を送り先がない。よって、先にニュージーランドに家を探しに行くことになる。そこでまた急ぎでニュージーランドに出向く。それも今度は住居を決めるため憧れの街クライストチャーチだけを訪れた。そして最初はホテル暮らしをしながら、レンタカーで物件を探し回る毎日。日本と同じく最初は不動産会社を回って物件を見せてほしいと頼むが、なかなかうま� ��いかない。時間はかかるしかなりじれる。考えてみれば不動産会社といえば当然売り物件が商売の主流なので賃貸はあまり気乗りがしないのかもしれない。そこで、急遽作戦変更。新聞広告を見たり大家さんを紹介しているインターネットサイトに登録したりで、直接大家さんに電話攻勢に転じた。仲介を通さないわけだから少々不安もあったが、やってみるとこれがよほど話が早い。笑った話がある。不動産会社に気に入った物件を紹介してほしいと頼んだところ、それはすでに決まっていて紹介できないと断られた。でも、それとまったく同じ家が賃貸物件登録サイトに出ていたので駄目もとで大家さんに電話。すると会ってくれるという。それならと会いにいって話をすると、「是非あなたたちに借りてほしい」といわれて結局次� �日になっても大家さんから電話がかかってくるほどだった。不動産会社からは紹介できないといわれた物件が、である。不動産が会社は私に嘘を言ったとしか思えなかった。とてもいい物件だったが、結果他にもっといいところが出てしまったので借りることはなかったが、教訓としては多少英語は不安でも直接やれるならそのほうが早い。あたって砕けろだ。それと、これは余計な憶測かもしれないが、日本人は親切で行儀がよく清潔に生活すると思われているためか、それとも我々が単に気に入られたのか(爆)は不明だが、物件を見に行ったたいていの場所で、是非入居してほしいと逆にお願いされた。うれしい悲鳴状態だった。最初からニュージーランドに好感をもててこれもラッキーだった。
そんなこんなで十軒以上は下見をしたであろうか。それで3ベッドルームの家で2台の車が入る巨大なガレージがあって、表と裏にこれまた大きな庭がある家、敷地で八百平方メートルくらいはあるだろうか。家自体でも百平方メートル以上はあるだろう。かなり大きな家をかりることになった。家の周りには大きな樹木が茂り緑に囲まれる憧れの生活の場所が手に入った。そして、問題の家賃は月にすると約千二百ドル(1ドル八十円として約9万6千円)という驚異的に安い金額だ。街の中心部に程近い、美しいエイボン川が流れる近くにしてこの価格。日本だったらいくらになるのだろうか…。余談だけれども、大家さんが動物愛好家だったことも会って、入居後犬を飼うことを許してくれた。なので、今はも� ��一人かわいい子供のようなパピーが家族に加わった生活を楽しんでいる。
海外へ引越し2
〜家が決まったら電話、電気、銀行開設、車を購入〜
さて、すばらしい環境の家は借りることができた。けれど次に、家に電話を引いてインターネットを接続して、電気を通して、ゴミ捨て方法を覚えて、などこれも次々きりがないことを全部英語でやらなければならない。このあたりになると、もういい加減はやく家に入って休ませてほしいと思い始めるがまだまだそんな状態ではない。妻は結構この手の作業を楽しめるほうだが、私は細かい作業が続くとバーストするほうだから臨界点に達しつつあった。
とにかく滞在中になんとか全部終わらせた。電話はパスポートのコピーをファックスしてほしいとかで郵便局まで行ってファックスしてもらってようやく開通。ゴミは役所に行ってゴミ袋をもらう登録をしてゴミの出し方を教えてもらって完了。そして、銀行口座も突然近くにある銀行を訪ねて口座開設をお願いするも、考えてみればアポイントメントを入れないとこっちの銀行は会ってくれないし、日本のようにすぐ口座開設はしてくれない。それで、もう一度出直して、なんとか面会。それで、面食らったのが口座の種類の多いことで、その中からどれにするか決めるだけでも一苦労。それが終わったら、今度はインターネットバンキングの登録と使用方法の確認。なにせ全部はじめのことを一気にその場で教え� ��まれるわけで、キャパシティの沸点まで達する状態だ。最後にキャッシュカードをもらって終了。と思ったが、キャッシュカードの使い方がわからず、もう一度確認に戻りなんとか習得して本当に終了。
参考までにこちらのキャッシカードは街中のほぼ百パーセントに近いお店などで電子マネーカードとして使用できる。慣れてくるとそればかり使用するようになるので、極端な話現金がまったくなくても困らない国である。
そして車を購入するわけだが、短時間で必需品の車を決めるのはどうも日本と勝手が違う分心配も多い。こちらでは新車も販売しているが、最初は謙虚に中古車から、というより予算の関係で中古車から始めるしかない状態。唯一の幸いは、前述の通りニュージーランドの中古車は九十%以上が日本から輸入した中古車だ。
そんなわけで、ニュージーランドでの中古車購入も始めての体験だった。いろいろと車も選んだが、後々のことを考えて親切なセールスマンから購入した。参考までにニュージーランドでは、日本の車検制度にあたるものは年間2回必要になる。相当頻繁にある。しかし、それは実は三十分程度で済んでしまう検査で、その上、料金も高くても五十ドル程度だ。なので、料金から考えると日本よりもはるかに車の維持費はかからない。それで多くの人は中古車でも車検を頻繁に行って安全に走行している。それも安い。これも生活観としは不便はまったく感じない。さて、これでなんとか生活と仕事の必需品はそろい始めるも、まだまだぎこちなさは残っていた。それでも、次第に明るい気持ちになっている自分に気� ��付いた。
あとは家財道具だが、ニュージーランドの場合家財道具、家具類は実はかなりこだわる人が多い。そんなことも引越しのためすべてそろえていく過程で気がつき始めた。これについては、別の章でインテリアやガーデニングとともにいかにニュージーランド人が、家周りのことに気を使うかを説明したとおりだ。私の場合、結局ここでも新品と中古品を買いまぜて家財道具をそろえていったが、特に中古に関しては、中古品店、個人売買、ガレージセールなど、時間さえあるならかなり探し出す方法がある。それも十分使えるものが引越しの時などにあわせて出てくるので、掘り出し物に出会えることもあり、そのときは嬉しさも格別だ。こうなるとニュージーランドライフも楽しみがどんどん増幅する。
いよいよ面倒な準備も終了。そして、新鮮な気持ちでニュージーランドライフは始まった。正直なところ、移住する段階で全く不安がなかったなどということを言うつもりは全くない。だれでも感じるように、本当に仕事を得て現地で枯渇することなく生活できるのかどうか、そんな不安は当たり前のように頻繁に抱えこんだ。しかし、世界のどこにいてもリスクは同じだと思うことにした。たとえば、日本にいても大きな会社にいるから安定が得られるとはすでに言えないだろうし、個人経営でもよほど健康的に自発的な人生を送る人もいる。また、日本の平均年間収入は一世帯あたりすでに七百万円程度まで達しているけれど、こちらはその半分以下でいいし、社会保障もはるかに整っている。ならば、仮に日本� ��多くのサラリーを得ても、社会不安は消えないかもしれないが、ニュージーランドでは平均所得だけでも、不安もなく生活できる。
要するに発想は転換できたわけだ。移住するときの不安はやはり誰でも持つだろうけれど、不安を見るより希望を見ればいいと思う。しかし、どうしても希望が不安に勝らない場合は、移住はしないほうがいいだろう。希望が勝ったとき、必ず新しい何かが待っている。それは胸躍ることでもあり、もしかすると自分の楽園となりえるチャンスでもあるはずだ。
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