2012年4月12日木曜日

ペルーのリマで会った日本人移民、日系人


メチェとの出会い

南米、特にブラジル、ボリビア、ペルーを旅すると、雑多な人が混じって暮らすなかに、特別に私たちの関心を引く人々がいる。それは私達と同じルーツをもつ日系人の存在だ。

かつてフジモリ氏が大統領になったことで、日系人が多いことが日本人にも知られるようになったペルー。またこの国は南米で最初に日本人が移民した国でもある。現在ペルーに住む日系人は政界をはじめとする各界で活躍し、不動の地位を占めているという。

祖国を遠く離れた日本人たち。いったいどんな苦労をし、今はどんな生活をし、そして日本をどう思っているのだろうか。普通の旅行者に移民と話すきっかけははなかなか訪れないが、リマ滞在時に思いがけないところからそのチャンスがめぐってきた。それはメチェという32� ��の女性に出会ったのが始まりだった。

親戚が集まって食べたりおしゃべりしたり

私はリマに滞在中、ペルー人の友人宅にお世話になっていた。彼ダニエルの一族は親戚同士のつながりが強く、しょっちゅう寄り集まってはパーティーを開いていた。私も何度かそれに呼ばれ、そこでメチェに出会ったのだ。

メチェはつい最近結婚したばかりで、ちょうど新婚旅行先のパナマから戻ったところだった。何気なく彼女の顔を見ていた私だが、まず思ったのは「よく見るとかわいいな」ということだった。ちょっとぽっちゃりしてはいるが、派手なところのない落ち着いた顔はとても感じがいい。女性が女性に対してこんなことを書くと、妙に聞こえるかもしれないが、とにかく私好みの顔だった。そう思ってよく見ていると、初めてこんな思いが頭を� ��ぎった。「少し日本人に似てるかも」と。

メチェとその夫ゴンサロは、私と同じダニエル宅に宿泊するようだった。帰りの車のなかでメチェが、カタコトの英語で親しげに話しかけてくる。そうしてしゃべっているうちに、なんと彼女の父親は日系2世、母親は1世であることが分かった。となると彼女には日本人の血しか流れていないことになる。似ているとは思ったけれど、まさか本当だとは夢にも思わなかった。パナマ帰りで日焼けしていた彼女の顔は、どちらかといえばペルー人に近いように見えていたからだ。

移民の歴史


嵐のドレインはどのように動作するか

日本人はいつ、どのようにしてペルーにやって来たのだろう。首都リマには日秘文化会館があり、その2階には日本人移住資料館が入っている。日本人のペルー移民の歴史を、グラフなどの資料とともに分かりやすい日本語の説明書でたどることができる。以下はここで得た情報のほか、各ホームページも参照のもと執筆した。

日本人移住資料館の展示。日本とペルーの先史時代からの歴史を比較したパネル

19世紀後半のペルーでは、綿、砂糖などの作物を作る農場で、あたらしい労働力の需要が増した。農村部の人々が不況にあえいでいた日本では、日本の移住会社がペルーの製糖業者組合と契約を結び、ここに移民が行なわれるようになった。

明治32年(1899年)の第1回移民では、新潟県人が約半数を占める790人が海を渡った。それから大正9年(1920)の第67回航海までに、1万5000人を越える日本人がペルーに移民した。

移民についてよく聞く苦労話も、初期の頃は本当にひどかったようだ。第1回移民(全て男性であった)はペルーがどこにあるかも知らず、4年契約の出稼ぎのつもりでやって来たという。

彼らはペルー到着後大� ��園に配属され、仕事をはじめた。最も悲惨な運命を辿ったといわれるカニエテ耕地で、あてがわれたのはサトウキビの葉に泥をこねて作られた粗末な住居だった。泥水を漉した水と粗末な食事のため、栄養失調者が続出したという。領主は時にはムチを用いて苛酷な労働を強いたが、賃金がまともに支払われることはほとんどなかったという。そのため脱耕者が続出、さらにマラリアが蔓延し移民たちを容赦なく襲った。

その結果死者が続出したため棺桶が間に合わなくなり、次の犠牲者を待ってから共に埋葬するほどであった。約半数の143人が、入植後一年を待たずに亡くなったのである。まさに地獄絵図を見るがごときだったろう。

日本人移民がペルーに持ち込んだ生活用具

ペルーの農業に適応できない移住者たちは、リマ、カヤオなどのの都会に移動し、商業やサービス業などの職業に就いて生活しはじめた。都会集中の傾向は年々進み、在留邦人の8割以上が都会在住者となるに至る。それに伴い移住者の各方面における活動がさかんになった。

日本が軍国化した結果、第二次世界戦争に突入しペルーの敵国となると、在留邦人は敵国民とされ再び苦しむことになった。財産を没収されたり、米国の収容所に送られた者もあったという。


薬の保護がどの程度それが町にかかる

このように辛酸をなめてきた日系人だが、現在はペルー政財界に多くの人材を輩出し、その地位はゆるぎがたいものとなっている。1999年には移住100周年を記念して、リマを中心にさまざまなイベントが行なわれ祝賀ムードに包まれたそうだ。

実はこうした日本人移民に関する知識は、メチェに出会ったとき私は何も持っていなかった。だからなおのこと一層、彼女の生い立ちや境遇、日本に対する思いを知るのは興味深いことだった。

メチェと話して

メチェは見た目の感じがいいだけでなく、話してみるととてもよい人だった。その気性には人に隔てをおかないペルー的なものと、気使いに長けた日本 人のそれとの両方があるように感じられた。

彼女の父は日本人の両親のもと、ペルーで生まれた日系2世。一方母は結婚のため単身ペルーに来たそうだ。恐らく父が出稼ぎで日本を訪れ、2人は日本で出会ったのではないかと思うが定かでない。父はスペイン語の方が上手だが、母はスペイン語はそれほどうまくないという。それでもメチェはほとんど日本語を話さないというのが意外だった。母は常にスペイン語で娘に語りかけてきたのだろうか?それとも子どもにとって、周囲の環境の方が及ぼす影響は、母のそれより相当大きいのだろうか。

それでも時々彼女は知っている日本語の単語を不意にまぜてしゃべったりして、その発音がまたかわいらしく面白いのだった。
「マイ、グランドファーザー、メイク、おもち」
どうやらおじいさんがペルーで菓子屋を営んでいたようだ。だから和菓子はメチェにとって子どもの頃から親しんでいたものらしい。

こうして一見ペルー人と変わらぬ生活をしているように見えるメチェにも、やはりそこかしこから日本という国の影響が感じられるのだった。

彼女には日本語名があり、それも「ユンコ」だと言う。そんな日本人名は存在しないと思って綴りを聞くと、「JYUNKO」だということが分かった。スペイン語には「ジュ」という発音がないからユンコになってしまうのかもしれない。

「いつも私のおじさんは、私の名前に似てると言ってからかうのよ。『ウンコ』って!」メチェはいかにも面白そうに何度もその言葉を言うので、私の方がちょっとヒヤヒヤしてしまった。彼女にとって はこの言葉も外国語。口に出して言うのにほとんど抵抗はないのだろうけど・・。

メチェのおばの家に行く

日本人の珍客・私がいるのを見つけたメチェは、彼女のおばの家に招待してくれた。彼女の実家は北部ピウラにあるのだが、おばの家はリマにある。


ここで、エリアコードは434です。

閑静な住宅街に建つ1軒の家がそれだった。外観はペルーのほかの家とほとんど変わらない。メチェは大学を出た後MBAの資格をとったという高学歴の持ち主で、現在は大学で働いている。そしてこの家の構えもペルーでは恵まれた方に入ることを考え合わせれば、日系人がペルーである程度の成功をおさめていることが理解できる。

家の中に通されても、とくに日本的な感じはない。しかしメチェのおばの家族は、みな日本人にかなり近い顔をしている。何世代かが一緒に暮らしているので、人が多くて誰が誰だか分からない。

メチェのおばの一家。右から2人目は日系人ではないペルーの友人、グリセルダ。さすがに顔立ちが違うのが分かる

「あのおじさん、本当に日本人みたい」私がメチェに耳打ちした言葉が、たまたまそこに来ていたメチェのお兄さんに聞かれて笑われてしまった。

「さあさあ、食べてください。あ、お箸の方がいいですか?」
60代ぐらいのメチェのおばに、立派な日本語でこう言われたので驚いてしまう。

いただいた食事は残念ながらペルー風の肉とジャガイモ料理だったが、とてもおいしかった。食べながら話を聞くと、日本食は特別な行事のあるときにしか作らないのだそうだ。

ころころした丸いものはジャガイモ

よく見ると、日本的なおもかげはほとんどないと思っていた室内にも、ところどころに和風の小だんすがあったり、日本のカレンダーがかかっていたりする。日本に旅行に出かけて買ったり、旅行に行った知り合いがくれたりするのだろう。

「はい、これおようかん」
食後に緑色のおいしそうなようかんが出された。こちらのマメを使って作るので緑になるらしい。思いがけない日本の食べ物に嬉しくなり「ようかんがあると、お茶が飲みたくなりますねー」などとつい言ってしまった。するとちゃんと急須に入ったお茶が出てきた。まるで催促してしまったようで、恥ずかしさに小さくなる。

ようかんとお茶の後ろにあるつまようじケースも、日本を思わせる

2世のおばさんが話してくれた。「私達は昔チンボテに住んでたんですけど、大変でしたよ。あの・・・あれ、何だっけ・・、そう、第二次世界大戦の時にはスパイだって疑われて、リマに逃げてきたんですよ。ほれ、日本語もね、あっちこっちの学校へ行って、ちょこちょことしか勉強してないから、ひらがなとカタカナしか読めないんですよ。」


その時は私に知識がなく、なぜ第二次世界大戦で日系人がスパイ扱いされたのか分からなかったが、苦労を嘗めた移民の生活に、かすかながら触れた気がした。また2世以降の日系人にとっては日本語の習得もなかなか大変なことで、しかも学校に行かないと身につかないということも初めて知った。

話していると「第二次世界大戦」のように、時々分からない言葉がある。この家でもやはり日常会話はスペイン語のようで、そちらの方がずっとスムーズに出てくるようだった。ただやはり両親からナマの日本語を聞いて育っただけはあり、抑揚はちゃんと日本人のものだった。

移民は日本をどう思っているか

日系ペルー人はかつての祖国� �日本のことをどう思っているのか。メチェはかつて1カ月間だけ新潟の親戚の家に滞在していたことがある。それについて「どうだった?」、と尋ねると、
「行くだけならいいけれど、住みたいとは思わない」
という返事が帰って来た。

日本の寒く厳しい気候もさることながら、南米の明るくおおらかな人々の間に生まれ育った彼女は、日本人の間での生活をきゅうくつに感じたのではないだろうか。恐らく南米である程度豊かな暮らしをしている日系2世以降の人々は、日本という国を知った上でさらに帰り住みたいとは思わないに違いない。メチェの意見は、そうした現代の日系人の意見を代表するように思われた。

ところが日系1世である彼女の母は、日本をいつも恋しがっているのだという。日本の友人とメー� �でやりとりをし、いつも日本のテレビ番組ばかり見ているそうだ。言葉も不自由で、気候や生活習慣も異なる異郷での生活。それが何十年にも及ぶと、ホームシックのうずきは押さえがたいほどになるのかもしれない。

100年前後の昔にペルーに渡った移民のグループが、一体どんな気持ちで故国日本を思ったのか。そのふるさとへ寄せたであろう望郷の思いが、メチェの母の思いと重なるような気がして、一瞬目がしらが熱くなった。

(旅行時期 2004年4月)



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