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| この項目では、ニューヨーク市の歴史について記述しています。ニューヨーク州の歴史については「ニューヨーク州の歴史」をご覧ください。 |
ニューヨーク市の歴史ではアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市およびその都市圏の歴史を記載する。
目次 - 1 先史時代
- 2 先史 - 1664年:レナペ族とニューアムステルダム
- 2.1 レナペ族
- 2.2 ヌーヴェル・アングレーム
- 2.3 ニューアムステルダム
- 2.4 ワッピンガー族に対する虐殺
- 3 1664年 - 1783年:イギリス植民地時代と独立戦争
- 3.1 イギリスの渡来
- 3.2 ニューヨーク誕生
- 3.3 イギリスの統治
- 3.4 印紙法と自由の息子達
- 3.5 独立戦争
- 4 1784年 - 1854年:初期のアメリカ合衆国
- 5 1855年 - 1897年:南北戦争下のニューヨーク
- 5.1 南北戦争とニューヨーク徴兵暴動
- 5.2 戦後
- 6 1898年 - 1945年:大都市ニューヨークへ
- 7 1946年 - 1977年:揺れるアメリカ社会とニューヨーク
- 7.1 戦後好景気と公民権運動
- 7.2 最悪の1970年代
- 8 1978年 - 現在:ニューヨークの復活と全米同時多発テロ
- 8.1 犯罪都市ニューヨーク
- 8.2 ニューヨークの復活
- 8.3 世界貿易センターの崩壊
- 8.4 現在まで
- 9 関連項目
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[編集] 先史時代
約75,000年前、最終氷期の時、現在のニューヨーク市はケベック州より伸びる厚さ約300mの大陸氷床の端であった。巨大な氷床はその移動で表層を削り取り、約5億年前に形成された片麻岩や大理石などの基岩をむき出しにさせることとなる。約15,000年前、氷床が後退し始めた。この時形成されたモレーンは、ロングアイランドとスタテンアイランドの丘として残っている。当時、この2つの島は現在のように分離しておらずザ・ナロウ(図1)と呼ばれる海峡は存在しなかった。海峡は約6,000年前に上湾(図2)の水が決壊して下湾(図3)に流れ込んで現在の形となった。
考古学的発掘調査によると人類が居住し始めたのは約9,000年前で、狩猟の道具や骨などの塚が発見されている。かつてこの地域は非常に生態豊かだったが、急激な気温の上昇により当時の人々が食料としていた大型の獲物達が次々と姿を消していった。
2度目の大きな居住は約3,000年前に始まり、弓などのより進化した狩猟道具が発見されていて、80の野営の跡が市内で見つかっている。同地域はこの時代よりコンスタントに人の居住が続いていると推察されている。
[編集] 先史 - 1664年:レナペ族とニューアムステルダム
[編集] レナペ族
この地に先住するインディアン部族のレナペ族(デラウェア族)は、長らくこの地を領土としていた。独自の文化を持ち、アルゴンキン語族系の言葉を話した。レナペはこの地域をScheyischbi、または「海との境界の場所」、「レナペホーキング」(論争中であり現在答えは出ていないが、おそらく「レナペの住む場所」という意味だという)と呼んだ。
彼らは地域で取れる限定された獲物(魚、鳥、貝、鹿など)約150種の狩猟をしていて、比較的獲物の数は少なかったと考察されるが、洗練された狩猟と資源の利用技術を有していた。焼畑農業により肥沃な土壌を生み出し、トウモロコシ、カボチャ、豆などを栽培した。また二つの川からはカキやストライプドバスなど多量の魚介類を手に入れる術も身に着けていた。レナペ族は小さな団体で季節ごとにウィグワムを使用した移動型生活をし、一定した集落に定住する民族ではなかった。(右図は当時のレナペ族の勢力範囲)
また彼らは文字を持たなかったが、現在のニューヨークの地名は彼らの言語に由来するものが多い。"マンハッタン"はレナペの言葉で「丘の多い島」、または「我々がみな、酔っぱらいにされた島」という意味である。優れた道路の開拓も行っておりブロードウェイなどその多くは現在でも幹線道路として残っている。
レナペ族は族内のみならず他の部族と物々交換による貿易もしていて、物々交換の主な対象となったのは貝殻などを手作りで宝飾品にした貝殻玉(ワムパム)だった。貝殻玉を作るのに必要な材料はピクォート族が独占していたロングアイランド・サウンド(図4)で採れた。現在のニューヨーク市地域で生産された貝殻玉が五大湖周辺でも発見されているため、同族同士のみならず他のインディアン、イロコイ族(現在のニューヨーク州東部に居住)などとの貿易の豊かさを示している。このことからヨーロッパ人の入植以前からニューヨーク地域は商業の中心であった可能性が濃い。ヨーロッパ人が入植し始めた時代のインディアン人口は同地域だけで約15,000人に上ったと推測されている。
[編集] ヌーヴェル・アングレーム
1524年4月17日、時のフランス王フランソワ1世の依頼で北米探索を行ったイタリア人ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが現在のニューヨーク港に来航。ヴェラッツァーノはこの土地をフランス国王の名誉に則りヌーヴェル・アングレーム(ヌーヴェルは「新しい」、アングレームはフランスの都市名)と名付けた。ヴェラッツァーノは本来、現在のニューヨーク市港への寄港を目指したが、現在彼の名が付けられているヴェラザノ・ナローズ・ブリッジのあたりまでしか行けず大西洋に引き返している。その場所で碇を下ろし、カヌーに乗ったレナペ族インディアンと出会っている。
その後、イギリス人の探検家でオランダ東インド会社に雇われていたヘンリー・ハドソンが初めて地図に同地域を記載している。1609年9月11日、ハドソンはマンハッタン島を「発見」、そのまま河の上流に向かい現在のアルバニー市までたどり着いた。現在、その河は彼の名を取ってハドソン川となった。ハドソンの本来の目的は北米大陸の北を周る北西航路の開拓でありそれは達成されなかったが、彼の報告は会社に莫大な利益をもたらすこととなった。
[編集] ニューアムステルダム
ヨーロッパ人による移住は1613年にローワーマンハッタンの世界貿易センターのあった場所で始まったオランダの毛皮貿易の発展によって拡大し、1625年にはマンハッタン島の南がニューアムステルダムと呼ばれることとなり、1626年にアムステルダム交易所が建設される。当時ヨーロッパではビーバーの毛皮が流行しておりオランダ東インド会社はハドソンが開拓した地域に新たなソースがあることを確信していた。また同じく1613年にはオランダ人航海士のアドリアン・ブロックはクルーと共に冬をマンハッタンで過ごし、春先に完成させた船でイーストリバーを北上、ヘルゲート(図5)を発見しロングアイランドが大陸ではなく島であることを白人で初めて知った。ブロックは海岸一体をニューネーデルラントと名付け� �会社は独占的貿易の権利を得た。これは現在へと続くニューヨーク市の巨大商業の誕生であった。
最も初期の移民は同地域を「発見」したとされているクリスチャン・ヘンドリクセンとジャン・ロドリゲスであった。ロドリゲスは初の黒人住民でもある。
1616年、オランダ人たちは貿易の拠点としてキングストンにも入植を始める。
1623年から24年頃、オランダはこの地域をフォートアムステルダムに創立したオランダ東インド会社による商業目的として見ており、ボウリング・グリーンにあるアレクサンダー・ハミルトンUSカスタム・ハウスを要塞化。これは上流から攻めてくる可能性のある他のヨーロッパ諸国から会社をも守るためであった。1年も経たないうちにニューアムステルダムの規模は拡大し会社を守るための守備兵や彼らの食料を作るためにヨーロッパから連れて来られたワロン人の農民達により人口が増加した。
オランダ人はヨーロッパ製のビーバーの毛皮加工用の金属製品を同地にもたらすことによって、インディアン同士の主要な貿易商品である貝殻玉(ワムパム)の貿易仲介を行い、生産効率を上げたが、一方その貿易的価値を下げてしまった。またレナペ族はビーバーを守るため食料用の漁業を諦めた。オランダ人は優れた道具で自分達でも貝殻玉を生産し始め、ヨーロッパ人とインディアン双方の貿易の主権を握ろうとしていた(同じことがニューイングランドの入植でも起こっている)。それらの現象が加速した結果、僅か20年足らずでビーバーは現在のニューヨーク市5区から姿を消し、17世紀は疫病、飢饉、他の地域の移住などでレナペの人口も劇的に減っていった。
ビーバーの毛皮貿易は現在のニューヨーク州北方に本拠地を移し北米西海岸の重要な貿易ハブとなった。この頃、ニューネーデルラントは貿易のみが盛んな地域でオランダ文化を持ち込む場所ではなかったため植民地指揮官は民族間同士の衝突に全く注意を払っていなかった。17世紀の貿易による経済効果はオランダ人のみならずスペイン人、ユダヤ人、黒人奴隷を同地域に集めることとなった。
オランダ語から来ているニューヨーク市の地名は未だに多く、オランダ語で「兎の島」という意味の「コニーアイランド」、「ブルックリン」「ハーレム」「ブロンクス」「フラッシング」「スタテンアイランド」などがある。
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